半農半菓
はだしがいいの
2004年1月19日
息子の光(ひかる)はもう夏には三歳になる。
彼ははだしが大好きだ。
「はだしは、気持ちいい―っ!!」と彼はいう。
そんな光が、いつのまにか、クツをはくようになった。
そしてクツが見当たらないときも、地面をつま先立ちで歩くのを目にするようになった。

「どうしてそんな歩き方をするの?」と聞くと、
「びーびーから」と答えが返ってきた。
「なんでびーびーの?」
「だって、はだしはびーびーんでしょ?」
「・・・・・」
彼の感性は、明らかにはだしを選んでいた。

そういう僕自身、はだしの心地よさを思い出したのは、つい最近、ケニアでだった。
以来、日本に帰っても、田んぼに立つ度、はだしになる。
そしてじっと目をつぶると、足の裏から、たくさんの声が聞こえてくる。
大地のぬくもり。日の光。あったかく、やさしく包み込まれていくような感覚。
僕たちは、五感を超えて、足の裏からも様々なものを感じている。
そんな幼な子の感性に、「外ではクツをはくものだ」という社会の常識がふたをしようとしていた。

クツだけではない。
僕たちは、育つ過程でだんだんといろんな観念という衣を着込んできたんだろう。
そして一枚着込むたびに、本来の自分を見失っていく。
いい学校。いい会社。財産。比較。競争。所有。
そしてそんな観念によって縛られて、毎日をコマネズミのように走り回らされている。
自分の感ずるままを信じずに、
「本当は今、こうしたいんだけど、○○○をしなきゃならないから・・・・・」
「本当はこうだと思うんだけど、まわりがこう言うから・・・・」
「本当はこうしたいんだけど、常識的には○○だから・・・・・」
「本当はこうしたいんだけど、人にこうみられるから・・・・・」
そうやって、本当の自分に蓋をして、違う自分を演じてく。
そしていつしかその偽りの自分を本当の自分と錯覚していく人のなんと多いことか。
学歴、出世、お金、競争・・・・そういった価値観の社会の行き着いた先が今の混迷ならば、
そしてそれらは、子どもから大人へと生まれ育つ環境の中で身に付けてきたものならば、
今、僕と子どもとの関係の中から、見直していこうと思う。

『三つ子の魂、百までも』
この幼な子たちの感性と想像力の中に垣間見る、無限の可能性を邪魔しないように。
そしてとらわれてない彼らの姿から、僕たち自身の中に染み付いたとらわれに気づき、はずしていこう。
それこそが新しい時代への確かな一歩に違いない。

「はだしがよかったら、はだしでもいいんだよ。
クツがよければ、クツを履いてもいいし。光がしたいほうにしたら。」
「いいの?うーーんとね・・・・・・はだし。 はだしがいいの!!」

2002年春

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