こびとのおうちえん
いのちをいただく
2020年2月26日
うぐいすがよくなく。
昨日、今日と、てらこやは、「いのちをいただく」というテーマで学んでいる。
今日は、「鶏をさばいて、料理して、いただく」という日。
おうちえんをはじめたころから、あつおさんは、いつかやりたいと言っていた。
肉を食べていること。それは、どういうことなのかを、もっと、暮らしの中に。という願いがあったからではなかったかと思う。
わたしは、ずっと、おうちえんのこには、まだはやいのではないか。と思っていた。
自分の中で、どこか怖いもの。見ることで、その怖さみたいなものだけが、残ってしまうのではないか。と、思っていた。
この度のことは、そうではなかった。ということを実感する時間になった。

今日も、おうちえんの子は、絡まない予定だった。
来た子から、下に降りて遊んでいた。
でも、庭で準備が進み、てらこやのこたちが集まり、実際、鶏をしめるのをひさとの母Sちゃんが、始めると、近くにいたおうちえんの子数人は、皆、足を止め、近くに行って見始めた。
鶏が、バタバタするのをくくり、吊り下げ、(そうするとしずかになる。)そして、首の部分に包丁が入る。
当然、血も滴る。
それを、みんなが、静かに、見つめている。
次は、てらこやのS、Kが、実際にそれぞれの担当する鶏を締める番だ。
ここで、おうちえんのミーティングの時間になったので、ひとまず、その場を去った。
わたしは、これは、見せないということは、かえって、不自然だ、ということに気づく。
そして、続きを見たい子は、それを見ることができるよ。と伝えた。
すると、見たい子は、たくさんいた。
庭に戻ると、鶏の毛をむしるところまで、進んでいた。
私も少しさせてもらった。
Sちゃんが、さいしょから、丁寧に、その工程を、見せながら、てらこやのこたちも、ていねいに、触れている。
肉の塊になれば、おいしそう。になる。
さばいている子は、ずっと、丁寧に、その塊を扱っていた。
その姿には、そうする責任のようなものをもっているように私は感じた。
実際に、体に中は面白くて興味深く、子どもたちは、釘付けになっていた。
それぞれの部位をひとつひとつ取り出していく。
今日、生むはずだった卵も出てきた。
砂肝には、砂だらけだった。
驚きの連続だった。
食べられるところは全て、てらこやの子たちが、数日をかけて、お腹に入れる。
今日は、焼いたももの部分を、おうちえんのこたちにも分けてもらった。おいしかった。
Sちゃんの佇まいや所作のひとつひとつや子どもたちへの教え方が素晴らしくて、それも心に残った。
鶏をさばくのを私自身が見られてよかった。
子どもたちが見ることができてよかった。
大切な機会を奪うところだった。
私の意識は、とても変わった。
こどもたちは、あんまり辛くなかったみたいだ。
それよりも、「面白かった。」というのが、彼らの素直な気持ち。
実際、一番、子どもたちが、興味を持ち、キラキラしていたのは、体の中身を見ていたときだ。
私は、それを聞いて、最初、正直、とまどった。
おもしろい。だけでいいのだろうか。
でも、かわいそう。というのも違う。
もし、しっくりくるならば、ありがとう。であって、それは、命をくれた鶏にもだし、さばいてくれたSちゃんやてらこやの子に対しても。
そして、それは、本来ならば、もっともっと暮らしの中に、自然と存在するべきものなんだろうな。
私は、ちゃんと関わっていない。
まだまだ。だな。

そして、、、小さい子達が、命を感じるのは、難しいことでもある。とも、おもった。
そして、「おもしろい。」が、やっぱり一番素直な感想なのだ。と、おもった。


by  よっこ

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