半農半菓
意識的に生きる(25)    〜魂の記憶〜
2008年9月30日
水と油、犬猿の仲。
僕と母の関係は、まさにそうだった。
いわゆる反抗期は当たり前にしても、
10代、顔をあわせれば言われる小言に、僕は辟易していた。
母の名誉のために断っておくが、彼女はいたって、常識的な普通の女性である。
きわめて常識的なだけに、人と違ったことばかりする僕のいたるところが目に付いて気になってしょうがなかったに違いない。
そんなこともあって、20代、それこそアフリカから帰るまで10年間、僕はまったく家に寄り付かない放蕩息子だった。
今考えれば、ずいぶんと心配をかけたろうと、申し訳なく思うが。

さて、30を迎えて、日本に帰り、実家を手伝いながら、百姓を始めた僕。
結婚し、子どもが生まれ、父母との同居暮らし。
しかし、相変わらず、僕のやろうとしていることはすべて、彼女の価値観からすれば、受け入れられないものばかりだったようだ。

添加物をやめること。
値段が倍になってもオーガニックの材料を使うこと。
子どもとの接し方。
田んぼの作り方。
店の運営の仕方。
スタッフへの待遇。
環境活動。
ボロボロの古い家(今住んでるいえ)を買うこと。
店を一ヶ月も休むこと。
などなど。
ことごとく反対し、僕の前に立ちはだかってきた母。

昭和42年、「欧舌菓舗」というお菓子屋を父と始めて以来30年、どこへも行かず、すべてを店のために費やしてきた母。
少しでも利益を出すために、従業員もあまり雇わず、
家のこと、子どものこと、そうじ、料理をしながら、店をみる。
外に出れるのは、店の前の花の水やりくらい。
それだけが唯一の気晴らしだったようだ。
店の番、電話の番をしなければいけなかったから、ほんとにどこにも出れなかった、と母は言う。
他のやりたいことすべてを犠牲にしてきたのだろう。
そのストレスが、僕ら兄弟に小さいときから、小言、愚痴として、シャワーのように口からあふれ出てたのだと、今はその気持ちもよくわかる。
それが嫌で家を出た僕。
僕が行方不明状態だった10年間、シャワーを毎日浴びてたのは、弟だった。
そして、僕が家に戻り、店を継いだ。



とにかくやることなすこと、母は反対だった。
僕が何かを進めようと思っても、口をはさむ。
それでも無視して強引に進めれば、矛先はすべて妻に向かう。
板ばさみになっては妻が苦しむから、そう無理にもできない。
僕はなんとか母の考え、価値観を変えようとしていた。
あるいは、変わらないまでも、せめてこちらの言い分も聞いてほしかった。

理性的に考えれば、母の立場も頭では理解できる。
人並み以上に、常識や世間体を気にする女性だったのはもちろんだが、
すべてを犠牲にしてまで守ってきた店、そのやり方、内容をことごとく変えようとする者への、
どうしようもない感情。
まして自分は数十年まったく自由にできなかったのに、息子は自由にしている。
店を人に任せては、やれ環境運動だ、田んぼだ、子どもと遊ぶだ、と。
自分が苦しんできた分だけ、理屈でなく、許せないのだ。
頭ではその気持ちも理解できるけど、
そんな理性では、僕の中から湧き上がってくる、怒りや悲しみ、さげすみ、批判、許せないという感情を押さえ込めないでいた。
僕の中に、ネガティブなエネルギーが渦巻けば渦巻くほど、彼女のかたくなさもますます固くなっていった。

そんなある日。
その日も、何かのことで母と衝突した。
ここのところ、幾度話し合っても平行線。
訴えても、通じない。
怒りに身を任せて、大喧嘩すれば、話はますますややこしくなるばかり。
なだめても、おだてても、泣いてみても。
ありとあらゆる手段をやりつくしたが、彼女の意識を変えようという僕の試みは、
すべて失敗だった。
僕は疲れきっていた。
なぜあんなにも意識が違うんだろう。
すべての元凶。
彼女さえいなければ・・・。
彼女さえ、ああでなければ・・・。
すべてうまくいくのに・・・。

なぜ、彼女はことごとく僕の前に立ちふさがるのだろう?
なぜ、・・・・?
頭の中は、彼女への不満と疑問で一杯、
大きなミキサーボールの中で、泡だて器で生地を泡立てるため、手をぐるぐるぐるぐる回しながら、
半ば放心状態になっていたとき。
突然、その記憶は流れ込んできた。
それはほんの一瞬のこと。

その記憶というのは、あえて言葉にすれば、こんな話だ。
僕が生まれる前、
まだ魂というか、小さな光みたいなものだったとき。
そこには、たくさんの光の玉が集まっていた。
小さな光は、そこで、これから降りていく世界へむけて、なにか宣言みたいなものをしてた。
「今度の生では、僕は、○○○の体験をしたい。
そしてこんな役割を果たしていきたいと思う。」みたいな。
(言葉はなかったけど、そういう思いが響いていた。)
そのとき、光の玉の中から、ひとつの光が進み出て言った。
「では、私が先に降りていって、あなたの母として生きましょう。」
「そこで私は、あなたが○○○を思い出し、受け入れること、赦すことを学べるように、
徹底的に否定的なことをあなたに浴びせ、支配し、あなたの前に立ちはだかりましょう。」
「そのとき、どうか、私を赦し、受け入れて、本当の自分を思い出してくださいね。」
僕=小さな光は、喜んで言った。
「もちろん!!約束するよ。」
「そのとき、僕はあなたを赦し、受け入れることを。」
「そして、あなたがその役割をしてくれたから、いろいろなことに気付けたことに、心から感謝することを。」
「ありがとう。」

あえて書けば、こんな感じのやり取りというか、記憶というか、そんなインスピレーションのようなものが、僕の中に流れ込んできたのだ。
それはフラッシュの光を浴びたような一瞬の出来事。
文字どおり、そんなイメージの光が僕の中に入り込んできた感覚だった。

今もって、それは僕の幻想だったのか、どうだったのか、よくわからない。
その頃読んだなにかの本の内容に影響された僕の思い込みかもしれない。
実際、似たような話を読んだ記憶があるから。
ただ、その瞬間から数時間、熱い涙がとめどなくあふれてきて、彼女への感謝で咽び返した自分がいた。
その現象が僕の幻想だったとしても、その熱い涙で、僕の中にこびりついていた何かが溶けていった、その事実だけは疑いようがない。


不思議なことに、このことがあってからは、僕の中の母に対する怒りも不信も不満もすべて、
すべてが消えうせたのだ。
同じシチュエーションがおこっても、まったく前のような感情が湧かない。
怒りも不足も、否定的な感情がわかなくなった。

そして、不思議なことに、
僕の中の彼女に対する否定的な感情が消えると同時に、彼女が僕を、僕のやろうとしていることを否定することがなくなったのだ!
嘘のように。

ちょうど、テレビで添加物のことや、環境問題のこと、いろいろなことを報道し始めたこともあったろう。
ちょうど、他のいろいろなことが重なったこともあったろう。
僕の中の握りしめていた何かが変わると同時に、まるで別人のようにすべてが変わっていった。
彼女の性格が変わったわけじゃない。
彼女の中の何かを引き出していたのは、僕の彼女に対する思い込み、レッテルだったのだ。
否定していたから、否定された。
不足に思っていたから、不足を言われた。
受け入れなかったから、受け入れてもらえなかった。
それは、まるであわせ鏡のように。

8年前まで、最大の障害だとおもっていたものが、今では最大の協力者。
彼女がいるから、今のうちのいろいろな循環がうまくまわる。
否定し、離れていたら、どうなっていたのだろう、と思う。

幼少時代、
彼女が否定してくれたおかげで、否定されることの苦しさ、否定されないことの喜びに
気付くことができた。
コントロールしてくれたおかげで、自由を求め、自由を手に入れることができた。
今の僕の価値観の下地は、彼女が存在してくれたから。
誰かが、その役割を担ってくれてなかったら、今の僕はない!
そのことに気づけた時、
すべてのネガティブなものが、すばらしい宝物に変わった。
そのとき、僕の中で、世界のすべてが変わったのだ。

出会った縁。
出会った出来事。
そこにはきっと意味があるのだと、今は思う。

自分と違うものと出会ったとき、
思うとおりにいかないとき、
誰かがすることが自分のストレスになるとき、
もしかすると、自分の中の何かを手放すために、それが起こってきてるのかもしれない。
何かに気付くために、その人がその役割を担ってくれているのかもしれない。
赦すということ、受け入れるということ、愛するということを体験するために、
その出来事と出会ったのかもしれない。

それが遠い昔に交わした約束だったとしたら・・・・。

赦せないことをされたとき、
あなたはそれでも赦しを選ぶだろうか。
違う価値観のだれかを、その人がその価値観でいいということを、
あなたは受け入れることができるだろうか。
誰かに何度も裏切られたとき、
あなたはそれでも信じることを選ぶだろうか。

いつも選ぶのは自分である。
自分は、何者でありたいのか。

もしかすると、誰もが持っているのかもしれない。
遠い魂の記憶。
交わした約束。

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