半農半菓
受け入れられないという怖れ
2009年10月28日
9月26日に「意識的に生きる  〜融合〜」を書きました。
あそこに書いたことが僕の中の本音です。
実はあれを書くこと、ずっと迷っていました。
一部の人には、直接話すことはありましたが、
ここでそれを公の場に表現することをずっとためらっていました。
上関のことで、六か所のことで、知り合いたちがアクションを起こすたびに。
一生懸命になってるたびに。
これを伝えなければ、書かなければという思いが湧いてきました。
でも、迷ってる間に時がたっていきました。
そして、今回も田名での阻止行動が始まった時から、
今までで一番強く湧いてきた、これを自分の中から声として出したいという思い。
悶々としている間に、また時間が過ぎていきます。
これを一番伝えたいのに書けなくて、
何度も書いては消して、書き方を変えて、
2週間、他のことは書く気がしなくて、ブログも更新しない日が続きました。
(転送くらいはしたけど)
やっと、
やっと書けたのが、26日。
数日のうちに、いろんな人から共感の感想や意見を聞きました。
書いて、
いえ、書けてよかったなと心底思いました。
長年の喉のつかえが取れた気分。
やっと、前へ進めた気分でした。

たぶん、・・・・
怖かったのです。
それを書くことで、なにかが壊れてしまうんじゃないかと。

誰かに、彼はこうだとレッテルを貼られていくんじゃないか。
彼は自分たちとは考えが違うと思われてしまうんじゃないか。
誰かが一生懸命やってることを否定していると思われるんじゃないか。
それならまだいいけど、誰かが懸命にやっていることに迷いを生じさせてしまうんじゃないだろうか、と。
自分がこう思ってるのは事実だけど、
それがあってるかどうかもわからない、
もしかしたら、自分の中の理想論と思いこみかもしれないのに。

誰かに、レッテルを貼られること、
こうだと決めつけられること、
否定されること、
裁かれること、
距離を置かれること、
関係が気まずくなること、
そんなことへの恐れ。

一言でいえば、それは
自分のありのままを受け入れてもらえないかもしれない、ということへの恐れなのでした。

そしておそらくは、
それは世の中のあらゆる問題の根底にひそむ共通の根っこだと思うのです。

今ここで起こっている上関の原発問題にしても、
近隣の市町村からあまり大きな声があがりません。
推進にしろ、反対にしろ、一部の声の大きな、はっきりした人たちの声が聞こえるだけです。
あとの大多数の人たちの声は、聞こえません。
声が、考えがないわけでなく、表にあらわれてないのです。
僕がここに住んで感じるだけでも、反対の気持ちを持つ人のほうが多いと思います。
けれどやはり多くの人は、表だって表明していません。

そこには、いろいろな理由があるでしょう。
商売上、本音を言えない人。
周りの人の本音が見えないから、あえて口にしないようにしてる人。
本音を言って、関係が気まずくなった経験から、言わなくなった人。
仕事の立場上、表だって表明できない人。
どうやって、自分の意見を表わしたらいいかわからない人。
自分一人が異を唱えても、どうしようもないと思ってる人。
あまり偏った意見をいうと、まわりからひかれそうで黙ってる人。
・・・
もっと様々な理由があると思います。

もちろんそこには、
周りの意見の違う人へのへの思いやりからという理由もあるでしょうが、
多くはやはり、怖れだと思います。
自分の本音を表明することで、
商売や、仕事がうまくいかなくなるんじゃないだろうか。
誰かとの関係が気まずくなるんじゃないだろうか。
家族と、友達と、同僚と、隣近所と、・・・。

これもやはり、
自分のありのままを受け入れてもらえないかもしれない、ということへの恐れに他なりません。
そして同時に、怖れと同じ数だけ、
だれかの本音、ありのままを、
レッテルを張り、決めつけ、裁いていく私たちがいるのです。
相手のありのままを受け入れない自分たちがいるのです。

もしみんなが自分の声を恐れずに表に出すことができたなら、
そして出てきた多様な声をありのままに受け入れていくことができたなら、
こんな混乱は生まれずにすんだに違いありません。
お互いに受け入れあった上で、意見の違いを話し合っていく。
そうすれば、それは分断や対立に向かわずに、
調和と協力へと向かっていくでしょう。
さらに違えば、さらに話し合って、深まりあっていくこともできるでしょう。
そしてその先に、原発建設という答えは、ないはずです。

原発のことだけでなく、
僕らの身の回りのいたるところに、こんな構図があります。
支配と抑圧。
反発とだんまり。
そして、分裂へ。
職場で、親子の間で、夫婦の間で。

ありのままを受け入れることをせずにされずに育ち、大きくなってきた私たちは、
その根っこに気づいたとしても、なかなかそこから抜け出すことは、容易ではありません。
無意識にそうしてしまうのです。
地道に内面で、自分と向き合っていく作業が必要になります。

もし、小さなときから、
自分の周りの環境が、
親子関係が、大人との関係が、友達との関係が、
ありのままの自分を受け入れてもらえるものだったとしたら、
ありのままの相手を受け入れることもできたでしょう。
その上で意見が違えば、話し合っていくことができたでしょう。
今のような問題のほとんどは、起こらないはず。


気づいた大人から、
子どもたちとの関係の中で始めたい、と思います。
もちろん、家庭での親子の関係が一番の基本。
でもやはり、時間的にも金銭的にも追い詰められてる社会の中で、
親の自分たち自身も、余裕がなくなっているのもまた事実。
だから、、、、

そんな共同保育を始めたいのです。
幼児園を始めたい。
幼児園から始めたいのです。
受け入れられる、という経験。
ありのままでいいんだという経験を積み重ねていける。
そんな場を創っていきたい。
子どもも大人もともに育ちあっていける場を。
そして、そんな関係が、
たくさんの家庭に、
たくさんの保育の場に、できていきますように。
その先にこそ、
僕らの理想とするみんなが幸せになれる社会が実現すると信じます。

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