地球子舎(てらこや)
常識ってなんだろう?
2017年2月4日
しょうたの振り返りノートより
しょうたの振り返りノートより
朝のミーティングでのこと。
昨日自転車の二人乗りをしてたことが危ないんじゃないかという意見がでた。
(ほぼうちの敷地のような道でだが)
子どもたちからいろんな声がでる。
「二人乗りはいけんのんじゃないん?」
「どうしていけんの?」
「危ないから」
「おうちえんの子が怪我したらいけんから」
「でもまわりにはおらんかったよ」
「乗ってる人が怪我するかもしれんじゃろ」
「怪我せんように気をつけたらえーんかねえ」
「警察につかまるけえ、やめたほうがえーんじゃない?」
「じゃあ、道路じゃなかったらえーん?」
「法律で決まっちょるんじゃないか?」
「いやいや、常識でいけんじゃろ」
うん?
僕は思わず問いかけた。
「常識ってなに?」
「警察にみつからなかったら、いいの?」
「決まりだから、なんでも従うの?」

常識として、みんながしてるから、自分もするのか。
決まりだから、疑いもせずにそうするのか。
どこかの国の大統領令だから、おかしいと思っても従うのかよって話。
子どもたちには、問いかけることを伝えたい。
決まりだからとか、そう教えられたからとか、みんながそうするからじゃなく、
なぜそうなのか、本当はどうなのか、ほかのあり方はないのか、
みんなが幸せになれる方法はないのか、
すべてのことに対して一度立ち止まって考えてほしい。
問い直す習慣を身につけてほしいのだ。
うちの家では普通だけど、ほかの家ではどうなのか。
この国では常識だけど、ほかの国ではどうなのか。
この星では当たり前だけど、もし進んだ文明の星があるとしたらどうなのか。
視野によって、視点によって、時と場所が違えば違ってくるものもたくさんある。
思い込みと固定観念こそが、僕らの自由をさまたげてるものだから。

そして自分はどうしたいのか、どうありたいのかを、いつも自分で考え、決めれるようになってほしい。
その練習を、日々の積み重ねを重ねてほしい。
ここ、てらこやには、それを存分に話し合える時間と場が、十分にある。

結局、二人乗りはどうなったかといえば、
危なくないか、誰かの迷惑になってないか、
自分で考えて決めればいいじゃろってことになったみたい。
もちろん道路はなしだけど、敷地の中でってことで。



Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
 ――常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである
                      アインシュタイン――

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