地球子舎(てらこや)
地下の秘密基地
2017年3月10日
1月ごろから男子で盛り上がってた地下の秘密基地。
一人が持ってきてた昔遊びの本に載っていたのを読んで、盛り上がって始まった。
ほんとに数人がはいることができる地下空間だから、どこでもいいわけじゃない。
崩れにくい所、
木の根っこが少ない所、
見えにくい所、
水はけのいい所、・・・。
いろんな要素を考えなきゃいけない。
山を歩き回って、何日か話し合いながらいいところを見つけた模様。
そして掘るのも半端じゃない。
何人も入れて、かがまなくて入れる深さの穴を手で掘るのは、時間のかかる地道な作業なのだ。
やってみてわかったに違いない。
日が経つにつれ、最初のワクワクと勢いはどこへやら。
いろいろ揉め事もあったにちがいない。
気がつくと、そら一人になっていたようだ。
そしてその原因は、作業の地道さ、大変さにあったわけじゃなく、
そらの振る舞い、言動にあった。
みんなおもしろくなくなっていったのだ。
「あれだけおもしろそうだったのに、なんでやらんの?」と聞いてみたら、
「指示してばっかりされて、ひとつもおもしろくない」
「もう、ほかのことする」
と、それぞれの声。
それから数週間、秘密基地づくりは開店休業。
そう、秘密基地なんて、ひとりでやったってなにもおもしろくないはず。
いつしか秘密基地つくりは中断になっていた。
だけど家で親から、
「あれだけワクワクと始めたことを最後までやりとげれないんだったら、てらこやに行ってる意味ないから、
4月から公立の小学校に戻りなさい。」と言われたそら。
またひとりでも始めようとし始めた。
でも、穴を半分くらい掘ったここから先は、一人では大変な工程ばかり。
やりたいけど、一人ではできない。
誘うけど、だれもやらない。
どうしたらいいかわからない日々が続いてた。
ほかのことでも同じようなことが何度もあって、彼はなんとなく一人になっていた・・・。

自由な場とは、残酷でもあり、シビアだ。
自分の心、言葉、振る舞いどおりの結果が、そのまま返ってくる。
規則とか上下関係で管理された社会では内側に隠されていくことが、自由な場ではそのまま表に現れてくる。
自分の振る舞いの結果をそのまま味わう。
それもすぐに。
でもだからこそ、そこに成長や気づきのきっかけがあるのだと思う。

あるとき、となりに座って「さみしいなあ」といったら、目に涙をにじませた。
「さみしいなあ」
「うん、さみしい・・・」
共感してあげることはできても、それ以上は余計だ。
安易な解決方法の提示も評価もいらない。
ここから先は、彼が自分で選んでいくしかないのだ。
自分で出した答えだけが、自分の力になっていくから。
(がんばれ・・・)
大人は信じて見守るしかない。

しばらくしたころから、そらの言動が変わってきた。
横柄な強引なことばや振る舞いが減ってきて、やわらかい言葉が増えてきたのだ。
彼の中で、何かが変わってきていた。
たっぷり味わった寂しさが、彼の中の何かを変えたのかもしれない。
そらの感じが変わってくるにつれて、
一緒に秘密基地つくりをする子も増えてきた。
人が増えたら、どんどん進む。
実際に人が入れる地下の空間だから、崩れたり危険があっては困るから、
そこは僕が口出ししたり手伝ったりしたけど、あとは子どもたちが。
ゴールが見え始めたら、みんなの目にきらきらが戻ってきた。
本の挿絵をみて、頭に描いた絵が、今目の前にあらわれてきたからね。

完成した日、
ろうそくを手に子どもたちと中に入った。
扉を開けてもぐりこむと、ろうそくの光に照らされた子どもらの顔が浮かんでる。
雪が降りそうな寒さなのに、あったかい。
ゆうが、自分の秘密の話をみんなに打ち明けてた。
ろうそく囲んで静かな声で。
おおっ!秘密基地!!ってかんじだね。

教育にPCゲームのマインクラフトをとりいれる動きも聞く。
流行りのマイクラもたしかにおもしろい。
想像力を無限に広げて、どんどん自分で作っていけるから。
だけど、リアルマイクラのほうが断然いいね。
簡単にできないからいい。
身体も心もたくさん動かすからいい。
そこには、比べ物にならないほどのドラマと学びがある。

地下秘密基地はうわさを呼んで、
観たい、中に入りたいという人で連日、見学ツアーがひらかれて。
おうちえんの子どもたち、いろんな大人たち、・・・。
(ほぼ、秘密基地ではなくなったけど)
そこには、うれしそうに案内するそらの姿がありました。

ページアップ