地球子舎(てらこや)
3年目の話し合い
2018年4月20日
今年も輪になっての話し合いからスタートだ。
昼ごはんの準備、片付けに専任スタッフがつくことになったので、当番が大きく変わるから、そこだけでも話し合うことがたくさんある。

ある日、Uが「昼を秘密基地で食べたい」と提案。
ほぼ全員がそれもいいんじゃないかという意見だったが、S一人が「外で食べるのは反対」
話し合いとなった。

2年目後半から「話し合う」という力がずいぶんついてきたように思う。
上級生が増えてきたこともあるだろう。
今では子どもたち自身がファシリテートし、場を進める。
誰かが話してるときは待ち、
なかなか自分の意見を言えないタイプの子が言えるようになり。
多数決で決めるのではなく、
全員が納得できる結論を出すまで、話し合う。
多数決で結論だすのは簡単だけど、
気持ちを聴き合いながら、場を進め、ひとつの結論をだすというのは、正直大人でも難しい。
けど、僕らはやはりそこを目指したい。

「ひとりひとりが尊重される社会」
「みんな違ってみんないい」
「お互いを理解する」
言葉でいうのは簡単だけど、
僕らの社会は、残念ながらまったく違う論理で成り立っているように思う。
パワーゲームとかけひき。
多数の側、強者の意見、都合が通され、少数側、弱者の意見、気持ちは、置き去りにされていく。
国も、職場も、家庭もだ。
大人の姿、社会をみて子どもは育ち、またその子へと同じ論理で向かい合う。

だから今、子どもたちの場から、創っている。
話し合いに時間をかけている。
ていねいに気持ちを聴き合うことから始めてる。

Sの気持ちを丁寧に聞いていくと、
「外で食べること自体は好き」
「月に1回だったらいいと思う」
「週に1回でも、まあいいと思う」
「毎日だったら、いやだ」
彼の中のラインがみえてくる。
もっと聴いていくと、
「食べるときばらばらになるのが、なんかいやだ」
最初は彼の中にも漠然としていた「なんかいやだ」。
でも全部がいやなのではなくて、その境界や、その底にあるものがいろいろ話してるとみえてくる。
それは、慣れ親しんだみんなで食べるという習慣から別の形に移る不安だったり、
一人ぼっちになるかもしれないという不安だったり。
「不安なんだね」
「うん、そうかも」
「いやだ」の正体をきちんと受け止めると、不思議と消えていったりするものだ。

次の日から、秘密基地で、縁側で、部屋で、
思い思いに楽しそうに食べてる子どもたちの姿があった。
もちろんそこにSの姿があったのは言うまでもない。

てらこやはたくさんたくさん話し合う。
話し合うことにけっこう時間をさいている。
でもとっても大事なことだと思う。
決められてるからそうするでなく、
大人に親に言われたからでなく、
なぜそうなのか、
自分はどうなのか
常に問いかけるということを、たくさん積み重ねている。
いつも自分自身の内側に意識的でいるために。
そしてお互いを理解して、ともに過ごしていくために。

お互いに自分自身でいるということを尊重しながら、場を創るというのはとても時間がかかることなのだと改めて思うことが多い。
でも時間がなくて、たくさんのことが置き去りにされていった姿が今の社会なら、
子どもたちの時間を取り戻すのも、僕ら大人の役目ではなかろうか。

どこかの国の国会よりも、はるかにすてきな話し合いがここにある。

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