半農半菓
大水害
2004年9月1日
タナ川。
ケニアを横切って流れるケニア屈指の大きな河川だ。
年間降雨量150ミリ。
半分砂漠のようなこの地域では、時折生えている潅木の肌ですら長いとげで覆われている。
それだけ雨が少ないところ。
そんなところだけど、そのタナ川のおかげで、そのほとりには生き物が住むことができた。
僕たちがいた街、ガリッサもそうしてできた街のひとつだ。

1997年12月、ケニアでの生活も10ヶ月が過ぎようとしていた。
雨が少ないといっても、年2回の雨季には時折激しいスコールはある。
ところがこの年の雨季はまったく違っていた。
毎日しとしとしとしと、まるで日本の梅雨のように雨が降り止まず、1ヶ月近くもの間雨が降り続いていた。
長老たちは、こんなことは初めてだと言っていた。
特にタナ川上流では、激しい雨が降り続いていたという。
そうしたある日、それは起きた。
夜中のうちに、みるみる水が押し寄せてきて、川から1キロ以内の家々には、肩まで水が来たのだ。
人々は、子どもたちを頭の上に乗せて、命からがら逃げ出すのがやっと。
幸い僕たちがいた事務所や宿舎は、1キロくらいは離れていたので、床下くらいの水だった。
ただ朝起きて、ドアを開けると家の一歩外は湖だっただけだ。

川の上流には、日本がODAで作ったダムが5つあった。
どこかの賢い人たちが設計した、100年に一度の大雨にも耐えうる容量の大きなダム。
しかし、一気にそれ以上の雨が降ったのだ。
ダムはたちまち満杯になり、これ以上溜まると、ダムが崩れる危険が出てきた。
それで一気に水口を開放したのだ。
後で聞くには、数日前に一応ラジオで避難勧告の放送があったらしい。
しかしだれもラジオを聞いてる人などいなかったのだろう。
それどころか、あの地域にラジオを持っている人が、いったい何人いたことか。
避難勧告をだれも知らなかった。

僕が一年かけて作ってきた炭窯、炭小屋、鳥小屋、井戸、畑、すべて川の底に沈み、流されていった。
きれいさっぱりなくなった。
不思議に悔しさ哀しさもなく、あまりの自然の力のすごさに(原因は人災(ダム)だが)ただただ感心して、数日前まで自分の畑があった今は川になった場所を見ながら「こりゃあ、すごい」と笑いさえ出たのをよく憶えている。
ま、僕はたかだか一年の蓄積が消えただけだったから、そうあれたのかもしれない。
宿舎の玄関のドアを開けた一歩外は川になっていたから、一緒に住んでいた5歳の子どもと玄関から釣り糸をたらした。
ナマズが釣れて、その晩の食卓にあがった。
そんなこんなで、数日間は非日常を楽しんだのだが、被災の状況がわかってくるにつれ、そういう訳にもいかなくなった。
幸い直接的な死者はいなかったが、何万人という人たちが、先祖代々の土地、家、家財道具、家畜、・・・・、すべてをなくしたのだ。
被災した人たちのほんとうの苦労が始まるのは、水が引いてもとの暮らしを立て直そうとしたときからだ。
今まで何年何十年とかけてつくってきたもの、貯めてきたもの、すべてがないからだ。
家も畑も道も一朝一夕には、できない・・・。
服も、かなづちも、包丁も、スプーン一つでさえ、すぐには揃わない。
学校が避難場所として解放されたが、到底足らず、降り続く雨を満足に防ぐ寝場所を見つけられない人もたくさんあった。
濡れ、風邪を引き、体力を弱らせ、・・・・そこにマラリア、赤痢・・・。
そして一番の問題は水だった。
この地域では、みんな川に必要な水を汲みに行っていた。
それは女性や子どもの役目。
だけど、水が少し引いた後、地域にはたくさんの池、水溜りができた。
少しでも楽をしたい子どもは、なるべく近くの水溜りで水を汲む。
しかし、そこには洪水で溢れたトイレの汚物、家畜の糞尿が色濃く混ざっていた。
なにしろ遊牧民族ソマリ族の街だったそこは、人よりヤギ、ヒツジ、ロバなどの家畜のほうがはるかに多かったのだ。
煮沸が足らない水を飲み、コレラ、赤痢の大発生。
2次的な死者がいったい何人あったのか本当の数字をだれも知らない。

後日、その頃の日本の新聞を見ると、国際面に小さく「ケニアで水害、数万人が被災」とあった。
たったそれだけだ。
それを読む人のいったいどれだけが、あの水害の実際を、すべてを失った人たちの気持ちを感じることができるのだろう。
毎日のように海外から伝わる戦争の被害、天災、・・・。
その行間には、いったいどれだけの悲しみと苦しみが隠れているのだろう。
これだけ情報が入ってきていても、そのほとんどは知識としてだけ入り、ぼくたちの頭の表面をかすっていくだけなのだろう。
僕たちがもう少し想像力を使うことができたなら、
もう少し世界で起こっていることを知るだけではなく感じることができていたなら、
そしてそれが、この日本の生活とつながりあっていることに気づいたなら、
世界はここまで迷路に入り込まなくてよかったかもしれない。

日本に帰って、どうしてあんなかつてない大水害が起きたのかを考えた。
そして僕は、はじめて地球温暖化という言葉と出会った。
その原因が二酸化炭素にあるにしろ、フォトンの影響にしろ、間違いないのは、確実に地球の温度が上がり始めているということ。
そして気候が大きく変わり始めていること。
世界では異常はどんどん膨らんでいる。
日本でも今年の梅雨はとうとうなかった。
(梅雨入り、梅雨明け宣言もいつのまにか出されていた。なんとしても梅雨ということにしたい気象庁?)
そして新潟の大水害。
ここらじゃ、いったいいつから雨が降ってないやら。
今年は畑の作物や果物の様子がなんか変だ。

環境問題は、最終的にすべて食べ物に関わってくる。
世界的な食糧危機は、間違いなく避けられないだろう、と僕は思ってる。
経済成長を基盤にした今の資本主義経済の崩壊も避けられないだろう、と僕は思ってる。
経済ゲームは、遅かれ早かれ終わる。
ほんとゲームみたいなもんだと思う。
そんなものに人生のすべてを投げ出したくないし、すがりたくもない。
確かなのは、どんな時代になろうとも、生きるのには、水も食べ物もいるということ。
快適に暮らすには、それなりの智慧がいるということ。

その智慧とともにある限り、僕たちは絶対的な大安心の世界に住むことができるのだ。
だから僕は今年も米をつくる。
今年も百姓としての智慧を磨きたいと思う。

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