芽吹き
2007年3月4日
冬、野山は一面、枯れ草の山。
見渡せど見渡せど、薄茶色の世界。
夏、隆盛を誇った草ぐさの勢いは、陰もない。
だけどその枯れた草を分けてみると、その足元に、北風から守られるようにして、新しい春の緑が息づいている。
毎日のようにニュースを飛び交う汚職、隠蔽、詐欺、迷走。
政治、教育、農林水産、商工業、いろんな組合、企業や組織。
ここ数十年、必要あって生まれ、時代を先導してきたいろいろなシステムが、
今、悲鳴を上げている、
かつて通用したやり方が通用せず、行き場を失った巨体をなんとか死守するために奔走する。
設立当初の意義と意欲は薄れ、組織を存続させることが目的となる。
まるで枯れ行くのをただ待つ冬の草ぐさのように。
誰もが出口を求めている。
誰もが春を待っている。
だけど春は春に始まるのではない。
春が冬の寒さのさなかに誕生するように、新しい時代は古い時代の死のさなかに誕生する。
ただ、それと、誰の目にもまだ見えないだけのことだ。
あたらしい時代の芽たちでさえ、自分たちが新しい春のために生まれてきたことに気づいていないかもしれない。
まわりがみんな茶色なのに、自分だけが緑色をしていると、なんだかみにくいアヒルの子のように自分を思うかもしれない。
だけど新しい時代の新しい芽たちが、うず高くそびえた枯れ草の間から、ここにもあそこにもあちこちに顔を出してくるとき、自分たちが古い枯葉社会のアウトサイダーではなく、新しい時代の新しいイノチなのだと自覚する。
今、古い体制の足元で、たくさんの模索と新しい試みが始まっている。
今は芥子粒のように小さくとも、なにも世界に影響を与えていないように感じても、案ずることはない。
どこかの救世主や、一人の政治家が世界を変えるのではない。
小さくてもいい。
私は私の周りに変化を起こせばいい。
新しい試みを始めていこう。
やがて燎原の火のごとく萌え出ずる春の緑のように、人は、春の訪れを知り、新しい時代への希望に目覚めるだろう。
春はもうそこまで来てる。
見渡せど見渡せど、薄茶色の世界。
夏、隆盛を誇った草ぐさの勢いは、陰もない。
だけどその枯れた草を分けてみると、その足元に、北風から守られるようにして、新しい春の緑が息づいている。
毎日のようにニュースを飛び交う汚職、隠蔽、詐欺、迷走。
政治、教育、農林水産、商工業、いろんな組合、企業や組織。
ここ数十年、必要あって生まれ、時代を先導してきたいろいろなシステムが、
今、悲鳴を上げている、
かつて通用したやり方が通用せず、行き場を失った巨体をなんとか死守するために奔走する。
設立当初の意義と意欲は薄れ、組織を存続させることが目的となる。
まるで枯れ行くのをただ待つ冬の草ぐさのように。
誰もが出口を求めている。
誰もが春を待っている。
だけど春は春に始まるのではない。
春が冬の寒さのさなかに誕生するように、新しい時代は古い時代の死のさなかに誕生する。
ただ、それと、誰の目にもまだ見えないだけのことだ。
あたらしい時代の芽たちでさえ、自分たちが新しい春のために生まれてきたことに気づいていないかもしれない。
まわりがみんな茶色なのに、自分だけが緑色をしていると、なんだかみにくいアヒルの子のように自分を思うかもしれない。
だけど新しい時代の新しい芽たちが、うず高くそびえた枯れ草の間から、ここにもあそこにもあちこちに顔を出してくるとき、自分たちが古い枯葉社会のアウトサイダーではなく、新しい時代の新しいイノチなのだと自覚する。
今、古い体制の足元で、たくさんの模索と新しい試みが始まっている。
今は芥子粒のように小さくとも、なにも世界に影響を与えていないように感じても、案ずることはない。
どこかの救世主や、一人の政治家が世界を変えるのではない。
小さくてもいい。
私は私の周りに変化を起こせばいい。
新しい試みを始めていこう。
やがて燎原の火のごとく萌え出ずる春の緑のように、人は、春の訪れを知り、新しい時代への希望に目覚めるだろう。
春はもうそこまで来てる。